私には外国人の友人がいる。
彼らはヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒と信仰はさまざまだが、共通しているのは、日常の中心に常に「神」があるということだ✨
断食、日曜学校、プージャ。
彼らの日常には、当たり前のように神があふれている。
少し前から私はトルコのドラマにハマり、連日観ていた。
その中で何度も耳にしたのが「インシャラー」「マーシャラー」という言葉。
なんて美しい響きなんだろう❤️と真似して口にしていたところ、
神様は「インシャラーではなく インシュ・アッラー、マーシュ・アッラーです。
マーシュ・アッラーは mercy=神の恩寵、つまり神への感謝です。」と教えてくれた。
早速、イスラム教徒フレンドに聞いてみると彼らは友達と別れる時や「いってらっしゃい」の場面など、日常のあらゆる場面で Inshallah を使うのだそうだ。
「Follow God’s will(神の御心のままに、神が望まれるなら)」という意味だと教えてくれた。
ドラマの字幕でも「神の御心のままに」と訳されていた。
日本語のいただきますはベスマラーというのだそうだ。神の恵みに感謝しますという意味らしい。
彼は続けてこう言った。
「すべての人類は、一人残らず神の恩寵のもとに生きている。君はわかるよね?
それを忘れると、日常は途端に困難になる」
本当にその通りだと思った。
けれど、こうした話を自然にできる日本人は、残念ながらとても少ない。
日本で「神」という言葉を出すと、途端に空気が固まり、
「怪しい」「どうしちゃったの?大丈夫?」と言われてしまうことが多い。
私は以前から、こうした話を自然にできる人とのつながりを渇望していた。
日本人特有の、みんなで集まり、不思議なことへの興味を満たし、安心するためだけの表面的なスピリチュアルではなく、もっと個々の根っこにある「神」の話を。
フィジーに滞在していた時も、バスや公園の休憩所には聖句があふれていた。
「YOU ARE THE BEST」
「YOU ARE ONLY ONE IN THE WORLD」
「GOD LEADS YOU」
こんな言葉を毎日目にし、毎週末教会で耳からも聞き、親からもこうした言葉をかけられて育ったら、自己肯定感の塊になるのも当然だろう。
フィジーの人たちは、屈託なく底抜けに明るい。
ヒンドゥー教徒は、毎日の祈りに加え、祈りの期間が頻繁に訪れる。
そのために、ずっと前から準備をする。
まるでクリスマスのアドベントカレンダーのように、日にちごとに役割が決まっている。
「今日は側溝を掃除する日」と書いてあれば、近所中のヒンドゥー教徒が一斉に側溝を掃除していた。
イスラム教徒には、定期的にラマダンがある。
本当にやっているの?とシンガポール、エジプト、パキスタンの友人たちに聞いたが、皆きちんと守っていた😅
日中は水さえも飲めない。しかも暑い国で💦
「辛くないの?」と聞くと、
「子どもの頃からやっているから慣れている。アラーのおかげで生きているのだから、これくらい当然だよ」と返ってきた。
ラマダンの本来の意味は、日の出から日没まで食事を断つことで、満足に食べられない人々の気持ちを知り、浮いた分を喜捨すること。
現代生活で断食が難しい人は、1ヶ月分の昼食代を金額に換算し、それを寄付するのだそうだ。
新鮮だと驚くと同時に、
なぜ日本人はここまで神から切り離されてしまったのだろうか。
古来より日本は特別な国だと諸外国から見られてきた。
「つぶしてやろう」と常に狙われている国だと聞いたことがある。
現在起きていること、過去の歴史を見ても日本が世界から疎まれてきた存在であることは否定できない。
私は陰謀説を追いかけるタイプではない。
だが、感覚としてはっきりとわかる。
だからこそ神々は急いでいる。
一刻も早く、日本人が本来の神性を取り戻すように。
古来、日本人は土地に感謝し、動植物や自然すべてと共に生きる自然崇拝の民族だ。
自分は自然の一部として生かされている、という感覚を持って暮らしてきた。
大元の源である宇宙創造神から派生されたすべてのもの。
そのすべてに神のエネルギーとエッセンスが宿る。
だから八百万の神が生まれ
「自分も、自分を取り巻くすべてのものも神である」という思想が生まれた。
これは本当に尊い感覚だ。
そして日本人は、本来誰もがこの感覚を内に持っているはずだ。
キリスト教徒のナイジェリア人の友達はこう言っていた。
「僕たちは月曜日から金曜日までは神の恩寵のもとで日常を送り、金曜日の夜は少し遊んでもいい。
日曜日は1週間の中で一番大切な日。
神と過ごす至福の日だから、土曜日は準備の日。
つまり家を掃除し、清めて自分の体も綺麗にして最大の日曜日に備える日なんだ。
そして日曜日は大好きな神に会うためにみんな最大限のオシャレをして教会に行くんだよ。
人に見せるためじゃない。神に会う日なんだから!」と。
彼はドレッドヘアでアクセサリーも大好きなオシャレさん。
一見、日本人から見たらチャラく見えるかもしれないが、とても敬虔だ。
ビデオチャットでは「今、朝のお祈りをしたところだよ」と家の祭壇を見せてくれたこともあった。
家族の写真でも教会に行くときはみんなものすごいオシャレだったし、そういえばフィジーでも日曜日はオシャレしてバスやタクシーを待ってる人がいた。
今朝、フィジーの友人はSNSにこう書いていた。
「しばらくの間、人との交流から距離を置き、一人でセルフピース(内なる平和)を整えて。
私たちは毎日多くの異なる波動とエネルギーに囲まれて知らないうちに影響を受けている。
「神を第一に置くこと!!」と書いていた。
フィジー人は他人にネガティブな感情を見せてはいけないと育てられるという。
それは家族や親友であってもNG。
人前ではいつも笑顔でいないといけない。葬式の時でさえも陽気に過ごさなければならないのだそうだ。
悲しみは一人の時。神にだけに見せる。
自分と神だけの時にはどんな姿も見せていい。なぜなら神様は私たちと共にいてどんな時も常に祝福してくれているから」と
泣き言や愚痴を他人にぶつけ、波動を下げることは集団全体にも影響するという理解をしているのだ。
日常に「神」が不在になると、意識は外側へ向かう。
他人、情報、集団意識に流され、不安や混乱に飲み込まれる。
心許ない集団だ。
心許ないとは、心細い・頼りなく不安という意味だが
漢字を見ると「心を許せない」と書く。
誰にも、何にも心を許せない状態だから不安や心細さが生まれる。
泣き言を言ってもいい
弱さをさらけ出していい
汚い感情も吐き出していい。
ただし、それをすべて委ね、依存しきって良いのは唯一「神」のみである。



















