使命というと難しく考える人がいるというブログを書いた。
(関連:使命てむずかしい? )
使命はこれまでの人生経験がある程度進んだ時に 今生での成長=魂の目的 を踏まえて今度は他者貢献に至ることであると。
そんな中、他者貢献というと「誰かに何かをやってあげる!!」と思う人がいる。
やってあげたい!!は奉仕の気持ちではなく大変傲慢である。
施す、やってあげるは上から目線で相手は弱者で自分と同等には見ていない。
私は御神託を伝えその人が魂本来の姿で生きられるように願いセッションをやっているが一度も「その人に気づきを与えてあげよう」と思ったことはない。
なぜなら「気づき」は本人がするものであり他人からどんな言葉を聞いてもどんな本を読んでも外側に求めるものではなく、内側で本人が納得できなければ起きないことだからだ。
ブロックを外すというのもそうだ。
ブロックも本人の気づきで外れるものだ。他人が外してあげるものではない。
ヒーラーが癒してあげるというのもおかしい。エネルギー交換をして神聖なエネルギーで相手を満たすということだろう。
私たちはそれぞれが持っている能力や特性を持ち寄って社会を作っているのだ。
誰かが誰かを支えてあげているのではなく、一見、役が立っていないように見えるものがいたとしてもみんなが気づき議論や対策が生まれ、支え合っての社会だと思う。
また、自己犠牲、利他はすばらしい面もあるが「私がいないとダメ」は自分の価値を上げるために周囲を弱い立場に置き、相手の能力を奪い、ダメにしているという利己的な一面がある。
かつての友人でものすごく働く女性がいた。
彼女はエネルギーにあふれ元アスリートでもあるのでテキパキ職場でも家庭でもまめまめしく働き、みんなの世話を焼くことを生きがいにしていた。
その結果、家族全員が大雨が降って彼女が外出中でも洗濯物を誰一人入れない、食事が終わっても誰一人下げない、彼女が消さなければ電気は何日でもつきっぱなしという状態になり、彼女は泊まりの外出はできないなど平気で言っていた。
一方、職場でも彼女の所属する部署だけ誰一人、自分では何もできないという状況に陥り、休日も夜間も営業の人たちが彼女にアドバイスを求めて電話をしてくるという事態に陥った。
んもう💢と愚痴り怒っている彼女ではあったが😤
あなたが過剰な世話をやめたらいいじゃない?という周囲のアドバイスに対して彼女は常に「だって、私がいないとメチャクチャになる」と返答するのであった。
私は彼女に「ダメ人間製造機」とあだ名をつけて常々からかっていたが、彼女の勘違いによる生きがいが他者の能力や意欲を奪っていると説明したらそんなふうに考えたことがなかったとポカンとしていた。
人から頼りにされること、感謝されることは確かに嬉しい。
でも、それが加速していった場合、それは「利他」から「利己」になる。
自分がいないとダメだ
と思うほど他者は劣っていない。
それぞれが目的と使命を持って生まれてそれぞれの課題に取り組もうとしている。
三次元の目先の生活にどっぷり明け暮れて毎日が雑多なことで忙しく、人生を生きられていない人が多数でも、長い年月の間に体の不自由、エネルギーの枯渇が始まれば自ずと生活に空白が生まれ「生活」から「人生」を顧みる内観の時間がやってくる。
その前に思うような人生を歩み「使命」に生きるためにも「気づき」が大切なのだ。
生きがいというのは本人が望み思うことと天から与えられた天命、自分で決めてきた使命が一致した時に感じる至福の人生だと思う。
本人の望みと思うこと が天命や使命と一致するために内観が必要なのだ。