おそれうやまうと書いて 畏敬(いけい)という
現代はお化けや災害は怖い👻 不安で未知のものは恐い😱 と恐怖には敏感で見えないものはないものとして扱うか、不安要素については猛烈に情報収集する。結果、情報過多やフェイクも含めて情報氾濫に陥りがちだ。
じゃあ「畏れ」の方はどうだろう?
おそれは祝詞の「畏畏申す〜」の「かしこみ」でもある。
神仏などの対象を畏れ多く思い、慎みと敬いをもって行う様子を示す表現であり「神さま、謹んで申し上げます。」という意味だ。
礼儀や所作をやたら重んじる人であっても相手に対して敬意がない人は大勢いる。
逆にフランクでフレンドリーでタメ口で話す人でも相手に対するリスペクトは十分に持ち合わせている人も多くいる。
形式を重んじるのか形式よりも真実を重んじるかの違いは波動として相手に確実に伝わる。
形式だけ重んじてうわべだけを整えている人はどんなに丁寧な言葉づかいをしていても、ふとした行為でそのメッキは剥がれる。
慇懃無礼という言葉はうわべだけが丁寧で中身は尊大なことをいう。
最近、神社に行くとそこに祀られているであろう神が不在のことがある。
どこへ行ったのだろう?と思うと思いがけないところにいらっしゃったりする。
数年前にある県の有名神社の周りを何度も通っていたのにそこに御神気を微塵も感じたことがなくそこが神社だとすら思わなかった。
立派な板塀があるなと思っていた。あるとき、その地域の別の場所を車で走っていた時に突如、後部座席から爆発音のような衝撃音が聞こえた。
音楽を大音量でかけていたのにその音を遥かに凌ぐほどの音量だった。音楽のボリュームを小さくしてしばらく経つとまたものすごい爆発音💥恐ろしくなり路肩に停車して確認したが特に異常は見当たらない。
また乗って走ろうと思ってふと顔を上げると道路の真向かいに小さな古い神社があった。
あぁ、ここに来いということなのだ!と思い早速その神社に入った。駐車場が3台分ほどある本当に小さな神社ながらものすごい強い御神気で立ち入り禁止のフェンスに鍵がかかっている奥宮までの小道にはさらに濃い神様の存在を感じた。
するとそこにかの有名神社の御祭神の気配さえも濃厚に感じて、あぁ、ここに避難されたのだなぁと思った。
後日、有名神社の映像をニュースで見た。多くの芸能人を招きお祭り騒ぎのような賑わいとキャラクターグッズのお守りや御朱印を数多く販売していた。映像から伝わる雰囲気になんとなく腑に落ちた。
そしてその後、ある霊能者の方がその県を訪れた時の感想がたまたまSNSで私の元に流れたきた。
するとその霊能者は私が感じたことと全く同じことを言っていた。「今やその県の神社で一番パワーがあるのはかつての有名神社からご祭神が逃げ出して避難されている◯◯神社です。その神社は小さくて古い神社で強力な結界による守りが堅いため呼ばれた人しか辿り着けないようなところに目立たずひっそりとあります。」と。
先日、訪れた有名な神社でも本殿にご祭神はいらっしゃらなかった。
山道を登った先の山の中の岩にいらっしゃった。
沖縄の御嶽でも同じことを体験する。
結界のほころび、そして、人々の敬意のなさ、開発などによる土地の「気」の変化で御神気が変化していくのを実感する。
私は常々、私たちは神の分御霊であり尊い存在なのだから自分を尊ばなければならないと言っている。
自分は神と同じもの
それは間違っていないし、そう思うことは正しい側面もある
が、そうはいってもこの地上に降りて肉体を持っている以上制限はあるのだから全知全能の神仏とは違うのだと思う。
だからこそ共同創造で助けていただきながら現実創造をすることが大切なのだと思う。
神とのつながりから離れた時、人は思考専従の暴走に走り、不安定を引き起こすのだ。
アイドルやタレントを神のように崇める推し活が流行っているが、神仏にも同じ態度なのはそれはまた違うのではないだろうか?
私は4月にヒンズー教の聖者に会った。
その方の熱心な帰依者の中にも本能的にひれ伏し拝む人々と儀礼的にひれ伏している人々がいることをその背中を見ていて感じた。
畏敬の念というのは儀礼的に感じるものではなく奥底から湧き上がる無条件の「畏れと敬い」の感情である。
すべての敬意や波動はその人の咄嗟の行動や行為に如実に現れる。
失礼のないようにと常日頃、言葉づかいや振る舞いに敏感な人がいるがそこだけが重要なのではないのだ。
「行い」にその人の内面や持っている波動が反映される。
大切なものは目には見えない🌟
目には見えないものは波動で現れ、それを体現するのが所作や行為になるのだと思う。
神妙な顔をして形式を重んじ寺社を参拝する人の中にも禁足地に平気で足を踏み入れる人、他の参拝している人の前を平気で横切る人がいる。
こういう人はきっと日常でも他者に対して全く敬意のない言動をしているに違いないと思う今日このごろ。
自分のお願いがある時にだけ参拝するのが神仏の存在ではない。
自分の「利」になる時にだけ丁寧な振る舞いをしても波動が高い相手なら容易にそれを見抜いてしまう。
それは神仏であっても人であっても同じだと思う。