その後、月日は流れ、2011年3月11日の朝。
私は出勤の準備をしていました。あの日は朝からとても天気が良く、一日中、小春日和になりそうな日差しでした。
東北では3月に入って日差しが出ていたら少々寒くても気分は春♪ 私もスプリングコートに薄いストールを巻いていこうと思っていました。
ところが、例の声の持ち主は今日は丈の長いものを!とロングダウンのイメージを見せるのです。
おまけにマフラーと手袋まで…まったく気乗りしません( ;∀;)
相変わらず反抗的だった私はヤダー今日は春っぽい格好をするんだもーん。とまったく聞こうとしませんでした。
通常、放任主義な声の主は普段ならそれ以上言わないのに、その日は珍しく粘りました。
何度かのやりとりがあり、その声はとうとう「なぜこんなにも私のいうことが聞けないのですか?今日だけは私の言うことを聞いてください!!」と言葉遣いは丁寧に、でも初めて声を荒げてお怒りになったのです。
あんなに長い間、私の悪態に一切の怒りも見せずに常に冷静沈着だったお方が初めて声を荒げて怒ってるー!!(゚Д゚;)
(たびたび呆れているのは感じていましたが怒られたことはない)
衝撃でした!!
ショックを受けた私は渋々、ロングダウンを着て、手袋はポケットに入れましたが…マフラーはどうしてもヤダ!
ストールだけは当初の予定どおり、薄いストールを手に取りました。すると薄くても幅の広いものを!というではありませんか。
半ばふてくされて幅は広いけど薄くて春っぽい色のストールを巻いて出社。
14:46 東日本大震災発生
私はエレベーターで別の階へ書類を出しに行き、自分のフロアに戻った途端にそれまで聞いたことがなかった緊急地震警報がみんなの携帯から鳴り響き、音に戸惑っているとすぐに大きな揺れが襲いました。会社なのでオフィス家具がはね飛びながら倒れてきます。
重い書類が入った机の引き出しがその重みに耐えかねてすごい音を立てて机ごと勢いづいて倒れてきます。あっという間に逃げ場がなくなるのです。
身動きが取れない中、第2話に書いたようにあらかじめ大地震が起きることを知っていた私は時計を見つめました。1分くらいなら耐えられると思ったのです。ところが3分間の揺れはとてつもなく長く、今日ここで自分の人生は終わるのだと数日前に起きたNZでの地震を思い出し、心からそう思いました。
揺れが止まり、やっとのことでオフィスから出て非常階段に行くと壁が崩れ落ち、階段の床が抜けて遥か1Fまで見えているところもありました。社屋の外で一時避難。16時過ぎに最少人数、最少時間でビル内に戻っても良いことに。
当時、制服を着ていた私は着替えが必要なのとオフィスとロッカーが別階だったので戻る必要がありました。
強い余震の中、片手で倒れそうになるロッカーを押さえながら着替え、また崩れた非常階段を1Fまで降りて帰りました。
当然、公共交通機関はストップ。近所に住む同僚と歩いて帰ることに。関西の友人たちから電話が来て、仙台空港が津波で大変なことになってる!とか川が逆流して津波で車が巻き込まれているなどと聞きましたが、津波など想像もつかず理解ができませんでした。
カーディーラーのショーケースが粉々になっていたり、道路も波打ち、歩道にも亀裂。上からも落下物。友人である同僚と街の惨状に恐れおののきながら繰り返す余震の中、歩いて帰りました。
そして、なんと朝あんなに晴れてたのに猛吹雪だったのです。そのとき朝、声の主から指示されたロングダウンに手袋、幅の広いストールは頭に巻くことができて、心からありがたいと思いました。無事帰宅できましたが、その友人宅の玄関ドアが歪んで入れずうちに避難することになりました。
私は普段、あまり買いだめをしません。しかし、なぜか震災の1週間前くらいからごはんをたくさん冷凍していたり、人から飲み物をケースでいただいたり、震災当日も会社に売りに来たパン屋さんからたくさんパンを買っていました。
そのおかげで友人夫婦とも何日間かは食べ物に困ることもなく過ごせ、数日前にいただいた飲み物を自転車で近所に配って歩くこともできました。また、家の購入時、オール電化にしようと思っていたのに給湯だけは灯油にしたほうが良いというこれまたお告げが役立ち、友人夫婦、実家の両親、近所の人も我が家のお風呂に入れたのです。捨てようと思って捨てそびれていた石油ストーブも灯油も入っていて煮炊きするのに大変役立ちました。
この時ほど「助けていただいたのだ」と実感したことはありません。
そして、昔から一貫して言われてきた私の使命をもなんとなく理解できたのでした。
そこから私の態度が変わりました。(長くかかりすぎ(笑))
ところが、震災の後から声の主は謎の言葉を言い続けることになるのです………