さて、ホテルの窓の外をみると三輪山が今日もくっきりと呼んでいる。
はい、今日伺います🐍とお返事🙏
早速、大神神社(おおみわ)へ。
5年前、この神社に行ったときは鳥居をくぐった途端に血管に水銀でも流されたかのように冷たく重いものが指先にまで入ってきた。
その日もくっきりとした快晴で賑わっていたのだが私は怖かった。よくこんな独特のご神気の神社にみんな訪れるなぁ、大和一宮だからかな?なんて思いながら当時集めていた御朱印をもらおうと並んでいたら、ふと目の前に「出羽三山 月山」という傘が杖と共に置いてあったのだ。
あぁ月読命が大丈夫だから心配するなと言っているのだとわかった途端に山の上から大きな蛇が参拝者ひとりひとりを見ているのを感じた。
そして自分は歓迎されているのだと知った。独特の歓迎の感覚😅
その後、等彌神社(とみ)に行くように当時の知り合いから勧められたもののどうやって行くのかわからず、大神神社の境内で「次はどうやって行くのでしょうか?」と聞いてみた。
すると境内を出た途端にバスが来てちょうど等彌神社に行くバスだったのだ。
優しい神様なんだな、独特だけど…という思い出が残っている。
今回ははじめから歓迎全開モードを感じた🐍✨
信号待ちで止まったら大きな鳥居にバッチリ収まるように三輪山が。
そして参道から写真を撮ったら鳥居の上にお出迎えのようにお蛇さまの雲🐍(カバー写真)
でもやはり御神気が強いところ特有で鳥居を入った途端に空気がガラッと変わる。
ちゃんと祓戸社からお参りしてゆっくり参拝することができた。
おまけに今回は余裕があったせいか、うさぎさんのかわいい御守りやお札なども買ってきた🐰
大物主さまは大国主さまの和魂ということも今回、知ったのだ。だからうさぎなのか🐇
出雲大社とつながってるのか?だからあのとき、「出羽三山 月山🌙」の傘が置いてあったのかと連想ゲームのように繋がった。
ちなみに全国の一宮は国津神が祀られていることが多い。
その後は5年前のコースと同じく等彌神社へ。
ここもまた受ける印象が5年前と違う。
前は神代からずっとそのままの苔むした神秘の森という秘された印象だったが今回は開かれて静かに人々を迎え入れている感じがしたのだ。
前回は参拝者は私だけだったが3連休もあってか今回は人が多くいた。
今回の奈良の旅で確実に次のステージに覚醒した感じがする。
昨年から布石は多くあり、旅のたびに段階的に上がってきたようには感じるが、今回は旅の2日前に松下幸之助さんが夢に現れて今回の旅へとすべて繋がっていると思える。
大半の人は外側で起きている眼に見える現象界の事象にとらわれて生きている。
私があちこち行くのも、観光や旅行だと華やかに見ている人たちがいる。
それはそれで良いが、必ずしも外に出かけていくことに意味があるわけではなく、生まれた土地から滅多に外に出ないけれども大きな働きをしている人もいる。
人はそれぞれ生まれた場所、今いる場所、今していること、すべて偶然ではなく見えない何かによって決められ動かされているのだ。
そのことを内奥=魂では契約として知っているのだ。
そして、ダルマと言われる義務、使命、役目がそれぞれの人にある。
渡辺和子著「置かれ場所で咲きなさい」でも言われているように自分が今いる場所で自身と自己が持つ才能を発揮し、貢献という働きを喜んでできていれば表面上の世にいう「活躍」と評される華やかな側面の有無は問われないのだ。
なぜなら、名声や金銭、物質的な豊かさは今世限りのものであり、自己の肉体とともにこの世においていかなければならないものだから。
そして、表面の他者からの賞賛や賛美を得ること、他者から認められることを追求してばかりいると、初めの意図・趣旨から離れて行ってしまうことも多い。
その点、静かな存在で大きな働きをしている人たちは自己と神から認められて、周りの人からその存在そのものを感謝されている。
実際にそういう存在の人たちと出会うと、その人たちは名を知られていなくても圧倒的な存在感を放っている。
そういう人がたくさんいる。
そういう深い探究をしている人たちの意識の集合でこの世の中は良くなっていくと思う。
結果はいつでも後から与えられるものであり、ものごとの結果は神のものなのだ。
私たちは大いなる宇宙の壮大な計画の中に組み込まれたひとしずくにすぎず、それでいて、なくてはならないひとしずくなのだ。
誰の人生にも、そして日々の行為やできごとには必ず意味があり、内面の変化や成長が日々もたらされていること、そこからの気づきがその後の生活に変化をもたらすことにもっと注意を向けて観察する必要があると思う。