第1話はこちら
私は幼少期から役に立たない変な予知能力がありました😅
毎年、夏休み、冬休みになるといとこ三姉妹が初日から最終日まで我が家に合宿のようにやってくるのが恒例でした。
私はその1〜2ヶ月前になると先どりでその期間に経験する夢を超リアルに見ました。
ある夏休み、母が国立公園に連れて行ってくれました。
私の夢はその国立公園前のバスの降車から始まります。
バスを降りる時に見た時刻。運転手の顔、名前、いとこが言うお礼の言葉。
降りてからの道のり。公園に入って山道の階段を登り、いとこの1人がこの花なぁに?と聞き、母が「ドクダミの花」と答えます。
そして、その坂を登り切ったところに露天風呂があり、炎天下にシワシワのおじいさんが1人入っています。
一番下のいとこが入りたい❗️と言い、母が困って鯉の餌を買って見事、私たち子供は鯉に夢中になって露天風呂への情熱を忘れます😅その鯉の色、池の感じ、鯉の餌の木箱、値段…夢はそこまででしたが細部に至るまで鮮明でした。
そして、その後、時刻も日や風の具合も会話もすべてが寸分違わず現実となりました。
学生時代には夕方、友達から電話が来る夢を見ました。まだその頃は固定電話で私は床に座って夕焼けに照らされた部屋を眺めながら彼女の失恋話を聞くのです。その内容、一言一句が鮮明でした。
その約2ヶ月後の晴れた夕方に彼女から電話。
それまで忘れていた夢を思い出し、次はこう言う、そして泣くと思いながら聞いていると一言一句違わず再現されたのです。
夢の中では3時間近く話すのでした。
私は途中で思わず「次はこう言うんでしょ?」と口を挟んでしまいました。
彼女は一瞬、絶句した後、あろうことか振られた恋人と私の関係を疑い出し泣きながら怒りました😱
飛んだとばっちりですが、予知夢を見たら口を挟んで変えてはいけないのだと学習しました😅
逆にある日の夢では、青空がきれいな昼間、カーブを大曲がりしてくる白い軽自動車と正面衝突の夢。車種もナンバーもおばちゃんの顔も髪型も鮮明。
その3ヶ月後、すっかり夢と同じシチュエーションで私はカーブミラーに夢で見た車が映るのを確認。瞬時に夢を思い出し、停まって待ちました。すると、夢とまったく同じ車種、ナンバー、おばちゃんが大曲がりしてやってきました。停まらなかったら夢の通りに正面衝突です。これは役立つ夢でした。
そんなこんなで私の予知夢というのは日常的であまり役に立たない不思議なものでしたが、母は違いました。
母は大きな出来事を予知できる人でした。
日航機墜落、奥尻島地震、阪神大震災、四川省大地震、東日本大震災など…初夢でその年に起きる大きな出来事を予知してきたのです。
日航機墜落では女の子が1人助かる、大勢亡くなってその中に芸能人や小説家がいると
奥尻島地震では北海道で洪水が起きると予知。翌日には浜言葉をしゃべってた。島みたいだ。被害に遭った人が地震でこうなったと言っていたと。津波でした。
阪神大震災は当時、神戸に本社がある会社で働いていた私に、あんたの会社がある辺りは地震で大変なことになる。高速道路が落ちる。火事で焼ける街もあると。
東日本大震災に関しては3年くらい前から予知していて、周りの人に家具の固定をするようにと言っていました。
2010年の夏頃には来年、年が明けたら来ると。
2011年の元旦にはとうとう春先には来ると言っていました。そして、会社の人にも家具を固定するように言えと言いました。
それまで母は自分が予言したことを人に言えと言ったことはなかったので、これは大変なことだと私は身近な人や職場の人に初めて母の予知の話をしました。
そして、実際に後から感謝されました。
そんなこんなで私たち親子はなぜか予知夢を見る不思議親子でした。
私は長い間、周りにスピ系の人が皆無だったため、日常、変なことがあると情報共有できる人はこの母だけでした。
幼少期からのこのような出来事を通して、今、セッションでお話ししているすべての出来事に偶然はないということを子供心に漠然と感じながら育ちました。ある程度、起きることは決まっていてそこをどう乗り越えるのか、どのような視点で捉えるのか。
その捉え方でその人のその後の人生形成が変わってくるのだと思います。そして、起きた出来事の意味や捉え方を見つめ直した時、魂の目的や使命が見えてくるようになるのだと思っています。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
神さまものがたりは今まで人に話してこなかったこともあり、なかなか体力がいるので続きは不定期🌟