私は名づけ魔である。
以前のブログにも書いたけどなんにでも名前をつけちゃうクセが幼少期から変わらずある。
参照:モノにも魂✨
小学校3年生の時に近くのスーパーで買ったパキラのパキラッタは今もご健在🌱
冬の私の不在時の寒さで枯れかけては春になったらちゃんと新芽を出して大きな葉を繁らせている。
先日、波動の話をしていたら相手の方が名前をつけるっていいんだってねーと言ってくれた。
どんなモノも波動を出している。
それが名づけられたら喜んで張り切るのだそうだ。カワイイ❤️
私の母は確かに私をそういうふうに育てたと最近とみに思い出す。
母は何にでも〜さんを付けて私を教育した。
羊さん、ゾウさん、くまさん‥
動物だけではない。私がモノを叩いたりぞんざいに扱うと「テーブルさんが痛いと言っているよ。」
「お靴さんがエンエンて泣いてるよ。」などと事あるごとに〇〇さんがという表現をした。
おかげで私はぜんぶにお目目がついてお顔があるように見えたものだった。
そして非常に感受性が強い子供に育った。
他の子供が何かをガンガン叩いたり、蹴ったりしているのを見ていると心が痛む。
大人に囲まれて静かな環境で生まれ育ったのに引っ越して入学した山の学校は暴れん坊が多かったせいもあり登校拒否になったくらいだ😂
そんなこんなで幼少期からモノにも魂が宿っていると理解した私は自分の持ち物に名前をつけるという癖がついてしまった。
結果、モノを捨てるのが苦手だ。
異常ともいえる記憶力でそのモノとの出会いや一緒に過ごした日々まで思い出されてしまう。
ガッカリ💔感謝して捨てよう。と思うものの捨てた後も記憶から消えないモノも多数。
これは執着なのだろうか?肉体を離れれば肉体はもちろんお金も持ち物も何にも持っていけない。
でも肉体を持っている間、この地球上に共に存在して私の元へきて一緒に過ごしたいわばお仲間と長い期間一緒にいたいような気がする。
けれどもリサイクルが叫ばれるようになってすべては循環だと思えるようにもなった。
魂も循環、お金も循環。エネルギーも循環。
肉体も古くなったら脱ぎ捨ててしばしの休憩ののちに新たな肉体に宿ってこの世に再び還ってくる。
日本人は万物に神が宿ると考え、八百万の神に名前をつけている。
私がなんでも名前をつけちゃう癖があるのも神道の影響だったのか??
いろんなものをさん付けで呼んでいた母から「なんでも名前つけて変な子ねー」と言われた痛い記憶も最近だってたくさんある😅
(すなわち言われ続けている😂)
そういうわけで私がお別れで泣くこと必至なのがマイカーである。
車ってどこでも連れてってくれて苦楽を共にして愛しいよねー❤️
次はもうすぐお別れが近いスナメリン号🐬についてブログを書こうっと。
タイトルの写真は名づけ魔を育てた問題の母とモーニャン😅
牛が大好きな私❤️牛のような色合いの猫なのでモーニャンと命名😆