最近、本や映画を見て思う。
自分のいくつかの過去生も含めて100年前ってつい最近だということ。
マリーアントワネット(1793年)の処刑や大政奉還(1867年)などたかだか200年以内のできごとなのだ。
10年一昔という言葉もあるが現在の生活様式と過去を比較するとその進化のスピードに驚く。
10年前と比べて医療や技術は格段の進歩をとげ自分の身の回りの変化も大きい。
公衆電話や黒電話からプッシュホン、ポケベル、携帯電話からのスマートフォンなど。
先日、テレビで時報やお天気を電話で聞くサービスが終了を迎えると聞いた。ゲストの若い子はそんなサービスすら知らなかった。
街では見慣れた建物がなくなり見慣れない建物が建ち、それがいつしか当たり前になり以前は何であったのか思い出せない。
人生100年時代と言われるようになった。
今でも明治、大正、昭和、平成、令和の時代を駆け抜けた100歳以上の高齢者はいるのだ。
たった10年でもこんなに変化するのだからその人の目で見た日本の様変わりはすごいことだろうと思う。
たかだか200年の出来事、されど200年の出来事も100歳まで生きる人が増えたら確実な記憶としてもっと正確に語り継がれるのか?などと最近、考える。
先日、東京の神田明神に行ったことを会社員だった時の上司に話すとその方は生まれも育ちも神田だったと言って当時の様子を教えてくれた。
現在の様子からは想像もできない。建造物、人々の趣味嗜好、動植物の生息、災害の規模に至るまで全てが変化し続けている。
進歩しているものもあれば退化しているように見えるものもある。しかし、すべては螺旋状に成長しているのだから常にわずかずつでも進化しているはずなのだ。
人は常に幸福を希求しているのだから現在、誤りとされる人に起因する事象もすべては「より良さ」を求めた結果であり本来は善からの発動なのだろう。
昔は処刑や惨殺が普通のことのようにあったが今は少なくなり、人道的な対処を求められる時代になった。
またLGBTQの人々が堂々と自己を表現できるのも人類的進化の証なのだと思う。
そして長い年月その土地でそれをただ見ている建物や樹齢を重ねた木々がいる。
神という存在は自らが創った世界の中で起きているできごとを細部まで堪能したいと願っている。
そのために自分の分御霊(わけみたま)である生き物を輪廻転生というテーマに添わせてさまざまなレベルでさまざまな体験をさせ、その存在を通してすべてを味わっている。
大きなテーマも小さな輪の中ですでに展開されている事象を見たら理解できる。
すべては人体も植物も細胞の隅々までそれは宇宙として展開しているのだから。
歴史は繰り返すという。なぜ繰り返すのか?
気づきを得るためだ。たくさんの犠牲を払って成し得たもの。
それを振り返り気づくことでより平和により良くしていくのが進化だ。
個人の人生でも気づきがないと同じチャレンジをいつまでも繰り返す。
成長と進化に破壊と再生は不可欠。
脱皮と似ている。
だが、すべてはより良い進化を求める善からの発動であるはずなのだがここに一部の強い権力や利権、金銭への執着が絡むと本来は必要が必然で起きることが、不必要を過剰に起こしバランスを崩すこととになる。無理は自然の流れに反する。無理は「理がない」のだ。
それは意識の問題。
気づきは「気」がつくエネルギーが付くのだから大きなステップにつながるのだと以前に神様が教えてくれた。
気づきを得たら次々と気づきが起きて10年どころではなく数ヶ月前の自分とはまったく別の自分と思えるほどの成長を遂げることもある。
気づきを得るためには波風のない平穏な心の状態でいなければならない。
魂の中心も地球の中心である地殻も常に「冷静」なのだという。
どんな時も何が起きていても「冷たく冷えて静かな状態」で観察できていなければなかなか気づきは起きないのだ。