趣味も嗜好も考え方も本当にさまざまだなと最近よく思う。
食べ物、興味、やる気、信念、価値観、お金の使い道、時間の使い方、口グセ、思考パターン、実にさまざまだ。
そして、自分が思うことをそのまま発言したり、行動したりすることは自分にとっての居心地の良い場所を作る手段になるのだと。
発言することで周りに自分の考えや好みを知らせ、それに共感共鳴した人が集まる。
それこそ波動が波動を呼ぶというものであり、煩悩の種類が似ているもの同士が気が合うのだ。
一方、パワハラ、ワンマン社長のようなところでは、当然のように支配する側が好き勝手な発言をする。
周りにいる人はビクビクしつつも従い、ご機嫌をとり、ワンマンパーソンはますますこれでいいのだと自信を深め力を増す。
そこに集まる人はじゃあ共感共鳴しているのだろうか?
それは「自分にないもの」を持つ人への一種の憧憬に似ているのかもしれない。
言いたいことが言えない、力に抑えつけられることに対して抵抗できない弱い自分に対し、好き勝手な言動で他人を振り回し、力で人を動かす権力者に対する畏怖と憧憬があるのかもしれない。そこには需要と供給というような波動の法則があるのかもしれないし、権力で人を振り回す人の内面は従っている人の内面と同じくらい弱く脆いのかもしれない。
よく、いじめを受けたり、虐待を受けていた人は自分より立場が弱いものができた時、自分が受けてきたことと同じような言動を他人にしてしまうという。その構造は内面の奥深くの「満たされない不満足」によって表出した弱さの現れなのかもしれない。
人間関係において自分の周りにいてほしい人/いてほしくない人 はどんな人だろうか?
私が思いついたのは
たとえば虫がいたら大抵の場合、みんなギャーギャー騒いだり、誰かがバチンと一撃で殺してしまったりするだろう
ところが、ある人たちの集まりでは、みんなが穏やかに1匹の虫を外に逃してあげようとする。もしくは落ち着いていて少しも動じる人がいない。
会話はなくても穏やかな気に満たされていて優しい安心感がある。そういう時には虫もおとなしくいつの間にか出ていくのである🦋🐝🐛
こんなにも反応が違うものなのかと思う。虫側の反応も違う気がする。
後者の集団の中にもゲッ!虫だー💦と思う人もいるかもしれないが周りがあまりにも冷静で慈愛に満ちているので騒ぐわけにもいかずそのうちその波動になじんでいく。
そうなのだ。朱に交われば赤くなる。類は友を呼ぶ と言い表わされるようにその場を支配する空気に人は飲まれ、なじんでいく。
スーパーで子供を口汚い言葉で怒鳴る親
観光地で大声でテレビ電話をしながら歩く人
身近な人でもそんなに親しくない人の言葉遣いや思考のクセ
を聞いていて「あぁ、こういう人は私のプライベートには一切いないなぁ」と思うことがある。
プライベートの人間関係は自分の鏡である🪞
気が合う人同士は同じような思考や言葉の癖を持っている。
では、自分はどういう人と付き合っていきたいか?考えるチェックリストにもなる✅
感謝が湧いてきました。
心の底からの感謝でいっぱいです。
これもよく聞く言葉だが、もっと良くなりたいなら、
「じゃあその先、その感謝に対して自分はどう在りたいのか?」を考えるきっかけにする。
感謝が湧いても自分は何もせずにこれまでと同じようにあり続けるのか?
もう一歩先の行動をしていくのか?
人間は無限に成長を続けていく宿命にある。
一人の個人も進化し続け、人類全体の進化に貢献している。
使命を考えた時、努力を努力と思わずに楽しんで取り組めているか?はそれが使命かどうかのキーになる🔑
「使命」に生きている時、人は夢中になり満たされる。
お金や認知度など目指す結果が仮にまだ出ていなくても、使命に出会い、その中で生きていることに至福の喜びを感じるようにできている。
苦労や努力、失敗と呼ばれるようなものは起きて当然だ。
だが、それが「使命」ならばそんなことは本人が気づかないほど苦にならない。
結果は夢中になってやっていて、気づいたら後から出るようになっている。
努力を努力と思い、苦労してやっていると感じるうちはそれはその人の使命ではないのかもしれない。
本当にそれが使命ならば「時間がない」、「できない」、「わからない」という「やらない言い訳」も出づらいはず。
忙しいという言葉は「心が亡い」と書くのだ。
使命に出会った人は忙しくてできないなどという言葉は口にしないはずである。
本当にその人の口にのぼる言葉というのはその人の思考パターン、今の波動の状態を如実に表すものなのだ。
じゃあどんなふうに生きていきたいか?
どんな人たちとつきあっていきたいか?
夢中になれることはなんなのか?
どういう時に幸せを感じるのか?
常に内観が必要なのである🧘♀️
そして、自分に正直に、人には誠実に🌼