私のセッションは魂のヴェールを剥がし、ありのままで輝く人生を生きることを目指している。
本セッションは約2時間を12回。
その中で徐々に決めて生まれてきた今世の使命と目的を明らかにし最奥から発せられる光を強くしていく。
「目的」は今世の魂の成長テーマであり
「使命」はある程度、目的が達成された頃から始まる他者貢献のテーマだ。
セッションの中で見つかる人もいれば模索中のままの人もいる。
現代生活では目の前の「生活」に奔走し「人生」の方をゆっくり内観する時間と習慣を持てない人が圧倒的だ。
真の魂の姿を取り戻し、自己の軸を確立するのに時間を要するとセッション12回では終わらない人もいる。
そして人生の目的の方は生い立ちから気づきを得る人が多いが、使命となると難しく考えてしまう人が多い。
使命は他者貢献だなどというとなおさらだ。
そういう私もこの仕事をするまでには時間がたっぷりかかっている。
しなければならないと思っていても会社員しかしてこなかった者には物販でもなく形のないもので起業する方法が思いつかなかったのだ。
直感に従わず変化を怖がり「でも」「けど」「だって」が発動した。
これらのワードは直感に基づく行動を妨げる三大ブレーキなのだ。
これを「したい!」から「する!」と決めたら方法はあちらからやってくる。
ある時に時機と方策がピタリと揃って押し出されるように何かに取り組むようになったならそれは使命だと言えるのではないだろうか?
お客さんが使命とは何か?で悶々と悩むのを見ていて思い出したことがある。
数年前に養護施設に押し入り「障がい者は生きている価値がない。無用な者は社会に生かしておいてはいけない」という妄想にとらわれて殺人を犯した人がいた。
またナチスドイツのアウシュビッツでは日々、残虐な殺戮が行われ「明日は自力で歩けなくなった者を全員殺す」などという命令が突如出されたという。収容されているだけで極限のストレス状態なのに命の終焉を一方的に告げられガス室に送られる。これは相当なストレスで精神を病む人が続出したのも頷ける。
一方、昨年おとずれた南太平洋の楽園フィジーでは働かずに朝からブラブラ、夕方も同じ場所でブラブラしている人が多数いた🏝️
タクシー運転手もお迎えを頼んでも「その時間はもう家族と過ごす時間だから来れない」などとはっきり断る。
みな輝く笑顔で自分の時間やペースを守って生きていた。
私たちは自分で生まれてくる国、土地、両親や生年月日時間を精密に決めて生まれてくる。
今世経験する大きなできごとも決めてくる。それは魂の成長に必要な事柄であり、使命を果たすためのエッセンスとなるできごとだからだ。
障害者は生きている価値がないのか?
彼らは自分の不自由で精一杯に見えても、無自覚でも彼らを取り巻く周りの人に多大な影響や気づきを与えているはずだ。
戦争、災害、虐待などで悲惨な死を遂げた人たちもその死は歴史上の負の遺産として語り継がれ戦争抑止や後世の人へ大きな気づきを与えている。
そして、降り注ぐ太陽のもとお気楽でのんびりダラダラしているように見える南太平洋の方々も「家族に恵まれて幸せ」と屈託のない笑顔で答える。
彼らがいるから他の家族も幸せであり、それを聞いたこちらも笑顔になる。
使命は無自覚で果たしていることも多いということだ。
「その人がいるから」と周りに励みを与える存在、「あの人がいたから」と誰かの心に残る存在、それ自体がすでに貢献であり使命を果たしているとも言える。亡くなった人の思い出は肉体を離れてもなお、人々の心に残り続けるまさに魂の繋がりだ。
また作品や作物、音楽、書物など創作物を通して直接的ではなくても大きく貢献をしている人たちもいる。
作品を受け取った人と直接対面することはなくてもエネルギーの交換が生まれる。
何世紀も前に作られた創作物であっても受け取った人の感動や感銘のエネルギーは創作者に伝わっている。
エネルギー交換は壮大な宇宙の中で日々行われている。
使命を探求するときに目に見える形や名声、金銭価値で図るとそれは使命から離れていくかもしれない。
なんとなく好きでやってしまうものやその人の在り方自体がすでに貢献をしていつの間にか使命に生きていたということも多いと思う。
子供たちから感謝されている大好きなお母さんという存在だって使命に生きていると言えるし、黙々と畑仕事をしている姿を見て近所の人が励まされている元気なおばあやおじい、あの人がいるから頑張れる!と周りを引き上げている会社の上司、会ったことはないけれど有名無名のステキなアーティストだって立派に使命を果たしているのだ。
ファンがいる!という時点で誰かに貢献してある意味、使命を果たしているのだと思う。