「困った時の神頼み!」という言葉があるように人は幸せな日常では神仏の存在をほぼ意識せずに過ごし、
苦しい時、辛い時、自分ではどうしようもなくなると「神様ぁー!」と助けを求める。
イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教などさまざまな宗教が存在するが、海外の信仰心が強い環境で育った人は子供の頃から日常の中に「神」が存在している。
オスマントルコ帝国のドラマを昨年8月くらいから見ているが(まだ見終わらないスーパー長編😱)
彼らは朝から晩まで挨拶に至るまで「神様にすがって生きている」
イラン人の友達とやりとりしていても英語じゃない文章がある。英語で書いてあるけれどイスラム教の言葉で「神の御意志のままに」だったり「神の恩寵のおかげで」だったりする。
神は私たちを常に見守り、私たちの祈りを聞き届けてくださる!という信頼の前提が根づいているのだと思う。
日本人はそこが非常に希薄になってきている。
戦後GHQの政策によりそれまで日常に組み込まれていた「神」が取り除かれた。
その後のカルト宗教の事件なども通じて日本人の中には
「神様とか信仰とかいうのは胡散臭い!辛気臭い!宗教にでも入っているんじゃないか?」
という穿った見方が根づいているように思う。
日本人は多神教で柔軟性があるので仏教だったり神道だったりキリスト教だったりと行事や都合に合わせてなんでも拝んだりしている。
それでもいいから日常の中に「人智を超えた存在が常に自分を導いているのだ」という考えを定着させると人生はもっと感謝にあふれスムーズになる。どの神を拝んでも行き着く先は創造主と言われる唯一絶対神なのだから。
昔の日本人はそれをシンプルな言葉で「お天道さまが見ている!」と言った。
私の小学校を訪れた時の総理大臣 中曽根康弘氏も「太陽は見ている」という見事な筆で偏額を残していった。
最近、私のお客さんで公私共に大変な状況にあった人がいた。
久しぶりに近況を聞くと彼女は「自分に還ることが楽しみで仕方ない」と言った。
マニアックー!と笑いつつも自分を究極までに掘り下げてそこに喜びを感じるというのは神に肉薄していくということなのだと思った。
だから喜びが湧いているのだ。そしてそれが救いになっていく。その作業自体が「祈り」だったのだと思う。
その内観の中で彼女は自分の思考の決めつけに気づき、行動してみると驚くほどスムーズにことが運んだという。
内観 → 気づき → 行動 で現実が変わったのだ🌈
「神」という言葉がよくわからない、自分には遠いように感じるのなら彼女のように「自己」を掘り下げ、受け入れ、信頼していく自己への回帰を深めていくと良い。
信頼と感謝が生まれた先には自己を生み出した神への回帰に通じるようになる。
そこに気づくと神と自分という両輪がうまく働くようになり共同創造が加速される。