クラスメイトが倒れた。
授業が始まる時間になっても起きないので起こしても起きない。
救急車を呼ぶ事態になった。
ところが救急車、来ない。
呼んだというフィジアンの返事も曖昧。
日本人は神妙な顔をしてひたすら辛抱強く、どんどん弱っていくクラスメイトを励ましながら待っていた。
一方、フィジアンの先生たちは「専門家が来ないとなんとも言えないから」と言っていつもと同じ調子で冗談を言い合いながら笑ったりしていた。
えぇーっと思った😱
脈も血圧も呼吸も弱くなっている!と言う仲間の日本語を聞きながら私は炎天のベランダに出て救急車が到着するのを今か今かと祈りながら待った。
来ない!!
フィジーの救急車は公共ではなく各会社がそれぞれアンビューランスサービスという形でビジネスをしているらしい。
または個人病院が抱えている救急車も。フィジー人たちは台数が多くて近くから来そうな会社に電話しようとした、在住期間が長い日本人スタッフは信頼できる医療がある個人病院の救急車を呼びたかった。ここに最初の齟齬があったらしい。
結局、救急は1時間近く経ってきた。そして、フィジアンの救急隊員は笑ってこそないけれど、日本の救急隊員のキビキビ!という動作とは当然、正反対でわれわれ日本人から見たらトロトロ。
こんな時までフィジー時間を持ち込むな!!と思った。
搬送後にドッと疲れて涙が出た😥
そして、これまたフィジー在住期間が長いフィリピン人先生にこの日本人とのギャップと味わった思いを質問してみた。
すると Big cultural different ‼️ びっくりするほどのカルチャーショック‼️を味わった。
フィリピン人の先生およびフィジアンの先生曰く、フィジアンおよびフィリピーノはこういうネガティブな場面ではさらに明るく強くいないといけないのだそうだ。
その理由は大変な時こそ、落ち込んだら周りにも影響してみんなが弱くなるから。他の人を助けることができなくなるから!という。
例え話をしてくれた。お葬式の時には誰一人、泣かずにカードゲームをしてギターを弾いて歌ってたくさんお料理を食べて笑って過ごすそうだ。
今や私の大切な師、ゲイのフィジアン先生がこの前、言っていたことを思い出した。
フィジー人は普段から辛いことも悲しいことも決して顔に出してはいけないと。
親や親友にでさえ、感情をシェアしないのだそうだ。
もし、一人のフィジアンが悲しんだり怒ったりするとその感情はあっという間に他の人に伝染してケンカになったりその場の全員がどん底気分になって手に負えなくなるらしい。
お葬式も最後の日に荼毘にふされる時のみ、家族全員が泣くそうだ。それが終わったらまた笑顔で過ごすとのこと。
でも、心の中では深い悲しみを味わっているし、誰一人、片時も故人を忘れることはないとのこと。
泣きたい時はトイレや部屋で一人になって泣くのだそうだ。
「なぜなら神は我々の内側にいてすべてを知っているし、本当の感情も知っているから。
いつも僕たちの悩みや苦しみも知っているからちゃんと解決方法も示してくれるに違いないから」と彼は言った。
これは私が神託を伝えるライフコーチとして最も人々に伝えたいことです!と思わず言ってそれからの1対1の授業ではありがたいことに毎日、このような神性について、日本人とフィジアンとの文化の違いについて話し合うようになった。
話を戻すと日本人は大変な時はヘラヘラしちゃいけないのはもちろん、神妙な面持ちで笑っていないことが常識だ。
それを彼女たちに伝えるとインド系フィジー人は日本人と似ているとのこと。
私は時間が経つ前に疑問を素直に言葉にして聞いてよかったなぁと心から思った。
知らなかったら我々日本人特有の「不謹慎!!」という価値観でフィジアンやフィリピーノをジャッジしてしまうところだった。
確かに救急車が行ったあと、それまでヘラヘラしていた先生たちが「あー怖かった。動揺した。落ち着くのにもう少し時間がかかりそうだからその後、授業してもいい?」と言い合っていたのだった。
そりゃそうだよね、いくら気丈にしていても同じ人間なのだ。味わっている感情は同じだ。
表出するリアクションだけで人を決めてはいけないということを学んだし、私はますますフィジーが大好きになったのだった。
ちなみに救急車が到着する前に亡くなる人が多くいるらしい。
それも含めて彼らは太く短く楽しく生きる!ということに達観しているのかもしれない。