我が家の庭がもう手に負えなくなった
と言っても膝が悪くてしゃがめないのもあって私は元からガーデニングが苦手。
父が生きていた時は両親がせっせと通って我が家の庭もやってくれていた。母はガーデニングプロ級の人なので実家の庭はいつも色とりどりの花が咲き乱れ中でも母が大好きなバラは四季を通して見事🥀野菜まで作ってる🫛🥬
四国に転勤していた4年の間に私の庭には笹が生い茂り根を張ってしまった。
毎年GWには帰省する夫と母と0.5人分にも満たない労力の私でキレイにするのだがすぐにボーボーに😣
母も80をすぎて自分の庭で手一杯💦
そんなわけではじめて庭師さんを頼むことにした。
ところが初めてのことでおつきあいもないので探すところから時間がかかりやっと7月に入って3社見積もりを取ったがどこも繁忙期💦施工はお盆過ぎまたは9月になるという😱
今日、近所を散歩したら道中あちこちのお庭に庭師さんが入っていた🌲🌳
みんなちゃんとプロに頼んでるのね⁉️と新鮮に驚いた後に祖母もそういえば毎年2回は庭師さんを呼んでいたと思い出した。
祖母の家には池があり周りにカッコ良い松が生えていて冬には雪吊りをしていた🌲🌨️
小さいながらも趣のある庭で幼少期の私はそこでただ何時間も池を眺める瞑想のような毎日を過ごしていた。
今日の散歩での気づきは餅は餅屋だということだ。
ワンストップのスーパーなどができる前の暮らしはお魚はお魚屋さん、お肉はお肉屋さん、庭は庭師さんと役割分担が明確だった。
魚屋さんに払ったお金でお魚屋さんはお肉を買う、お肉屋さんはお花屋さんでお花を買うなど循環がわかりやすかったはず。
それに困ったことがあってもみんなが常に行き来する状態なので知恵を持ち寄り複雑化する前に助け合ってシンプルに解決していたはずだ。
今、私たちは巨大な経済網の中で自分の払ったお金がどこに行って自分は何を得ているのか循環の実感が希薄だ。
加えて、自立を促されなんでも自分で解決しなければならないという強迫観念もあり、気軽に他人に助けを求めることもできないのではないだろうか?
もっと小さくわかりやすい循環の時には「金は天下の回りもの」という言葉をリアリティを持って見れていたのではないだろうか?
それぞれが特性と得意を持ち寄って成り立っていた社会では悩みがあってもすぐにその道のプロに辿り着けてシンプルに円満に解決されていたのではないだろうか?
見積もりに来た庭師さんの名刺に「遺品整理、大型家具の処分などなんでもご相談ください」と書いてあった。
聞くと庭の手入れに行っているのに高齢の方などから家具の処分やゴミの廃棄について相談されるという。
一方、それを生業としている人と出会ったら彼らは家具の引き取りに行っているのに庭の手入れを相談されるという。
そこでお互いが協力することになったそうだ。
今は便利な世の中で一見、すべてが揃っているように見える
だが、誰かに聞きたいことを聞けない
どこに聞いたら良いかわからない
ということが多い世の中でもあるように思う
餅は餅屋
お金もエネルギーでありエネルギーが循環している中のお金という形態である💴
その道のプロフェッショナルに助けを求めることは時間の節約にもなり、かけたお金以上の快適性や幸福感を得て今度は自分から良いエネルギーを発せられるようになる。
すべては循環
良い循環は円満を産む⭕️