会社員をやめて好きな時間に好きなことをできる生活になった。
はじめの頃は規則正しい生活を維持しよう!とタイムスケジュールを作ってはりきっていた。
朝晩どちらかの散歩も欠かさず、週5回、会社員の時と同じペースで水泳に通いハードなチームトレーニングをこなしていた💦
今思えば私も含めチームの人々も退勤後に休まずに集まり、あれだけハードな練習をして23時半ごろ帰宅して、翌朝また出勤するということができていたのはひとえにストレス発散のためであったのだと今は思う。(みなさんは継続中💦)
どおりで無職とか自営業の人はあまり熱心には来ていなかった😆
その頃の私は自分がもっと時間があって自由だったら毎日、朝も夜も来るだろう!!などと考えていたが今はまったくそう思わないどころか一生続けるだろうと思っていた水泳から遠ざかってしまったのだ。
⚠️それでも週1回は水に入り、ダイビングもしているので水中生活はペースダウンながらも継続中🐠🐳
心境の変化が大きいこの1年。
自分でもえっ?なぜ?とビックリする自身の変化にたびたびポカンとする(°_°)
一生続ける!!と思っていた水泳をやめたことが一番驚いたことだったが、この1年、食べ物の好みも考え方もそれまで熱心にやっていたことも「ある日突然」といえるほどの幕切れを迎えた。
これまでの人生を振り返っても人間関係はある日突然、終焉を迎えることが多く驚きとともに悩んだこともあった。
が、先日、恩師が電話で「それは当たり前のことです。あなたのお役目からいって同じ方向を同じ波動で一緒に向いている人じゃないとプライベートでの関係維持は無理でしょうね。一緒にいられなくなるのです。それは天からの恩寵ですよ。」と言われて納得がいくとともに安心と覚悟と信頼がさらに増したのだった。
そう、ここ1年で私は「信頼」が増したのだ。
起きることはすべて最善 ということに実感を伴って安定が増したのだと思う。
思考や感覚のレベルを超えて自然になってきたのだろう。
人生はその人の思念のとおりに展開するという意味の 人生は思い通り!!
そして時に思わぬアクシデントや望んでいることとは全く別の方向に進むという 人生は思い通りにならない!!
顕在意識レベルでは「人生は思いがけないことの連続である」
今、石牟礼道子さんの著書を読んでいる。
これもまた思いがけない出会いだ。他の著者の本で彼女の言葉が紹介されていて私は彼女の名前と言葉の用い方になぜかピンときた。
「石牟礼!?石牟礼道子!?」当然、知らないのだがなぜか強烈に気になって熱は熱いうちにとAmazonで著書を買った。
その後、図書館に行き彼女の著作を数冊借りた。代表作の「苦海浄土」はものすごい分厚さで内容から言ってもまだ読めない。
下準備として他の著書を読んでいるが彼女の故郷への想いや自然や生きとし生けるものへの想い、神々や目に見えないものへの畏敬の表現に圧倒され共感する。
彼女の思いや表現は誰しもの故郷や日本の原風景に共通する一種の懐かしさや郷愁を喚起するものではないだろうか?と思う。
私の神様の言葉に「自ら学ぼうとするな!人は知るべき時に知り、学ぶべき時に学ぶ」と繰り返し言われ続けてきた言葉がある。
この1年の心境の変化を思うとき、この言葉もまた一緒に蘇る。
人はそれぞれその時々で必要なものが準備ができた段階に応じて与えられるのだと。
1年前に今の状況を理解できたか?と自らに問うても理解できなかったと思う。
通勤をしない日々はゆるやかで毎日たっぷり時間があるように思えて、その実あっという間で自由な分、時間の使い方にも言動にも責任が伴う。
なんにもしていない。なんの進歩もしていないと感じる日々でも半年前の自分とはまったく違う感覚で1年の間にさまざまなことが現実に起きて人間関係や内面も大きく変わっている。
そしてその時、その段階に応じてちゃんと与えられている。
みんな一人一人が準備段階に応じてさまざまな恩寵やチャレンジを与えられ学び、変化変容を遂げられるようにサポートがある。
足るを知る、身の丈に合った というのはこういう内面と現象の関係のことを指しているのではないかと思う。
準備ができていない器に注いでもただ流れて受け取れない。
その器に応じたものが注がれていくということなのだろう。