「あのとき、教えてくれてありがとう🧡」と言われることがよくある。
私は自分の嬉しさや喜びを人と共有したい、自分が良いと思ったものは素直に躊躇なく人に勧めるタイプである。
相手がそれでどう思うか?その後、その人はどうするか?ということはあまり考えない。
だって、それは相手の領分であって私が介入する部分ではないのだから。
一方で、同じように良いと思っていても、誰にも話さない人が意外と多い。
理由を聞くと、ほとんどがこうだ。
「こんなこと言ったら相手はどう思うかな?相手の今の価値観を否定していると受け取られそう」とか
「こんなものを使っている自分を知られたくない」だとか「自分だけの世界として楽しみたい」だとか…笑
そうして多くの“良いもの”が、誰にも届かずその人の中だけで完結してしまう。
私は一人旅をすることも多いが、一人でも十分満たされる。
むしろ雑念が入らず、神気や神仏との交信も深まるので、一人が最適な場面も多い。
でも、人と共有すると喜びは倍増する。
美味しいものを食べて「美味しいね」と言い合う。
素晴らしい光景を見て一緒に感動する。
これが共鳴・共振という現象であり、魂が響きあう瞬間だ。
共鳴共振現象は共に鳴り響き、震える という文字どおり、魂が響き合う現象である。
物事を共有するというのはこの共鳴共振を日常的に起こすことなのだとこの仕事をしてますます感じるようになった。
私は神仏の言葉を伝え、その人が真の自分(真我)で生き生きと人生を生きられるようにというセッションをしているが、
もし私が、神託を自分だけのものとして心の中に閉じ込めていたらどうだろう?
これまでセッションを受けてくれた多くの人に起こった気づきや変化は、もっと遠い未来、あるいは一生起こらなかったかもしれない。
これは、幼い頃から自然とやってきた「良いと思ったものを素直に共有する」という性質にも通じている。
自分を晒す・自己の殻を破る
というのは確かに抵抗がある。勇気がいるし、他者の目が気になる。
(私だって人前で話すのは苦手だったし、引っ込み思案であったし、今も少しそれが残っている笑)
でも、真我で生きるようになると「自分と他者」の関係ではなく「自分と神」だけの関係になり、他者の思惑などは気にならないようになってくる。
そうなれば自身が持つ才能や性質が顕現してきて、どこにいても、誰といても、どんな状況でも「真我=自然体」で生きられるようになるのだ。
これは「自己信頼」と「自己認識」に関わることなのだと思うようになった。
わかりやすくいえば「自分と神以外の関係はどーでもよくなってくる」のである🌸
これが基本であり、また、究極の形態であり、その上で「同じく神の子である他者も神対神として敬意を持つ」という自己を中心とした宇宙の相似性という領域への認識に至るのである。
日常の小さな気づきや、良いと思ったことを人に伝えるのは、
言い換えれば 「徳を積む」 行為である。
相手がどう受け取りどう活かすかは重要ではない。
だからこそ、押しつける必要はない。
ただ、自分が良いと思うことを淡々と伝えればいい。
言葉は相手の意識に残る。
必要なときに発動し、相手の行動のきっかけになる。
その“きっかけ”を作ったあなたの徳となる。
商品開発や発明だってそうだ。思いついてもそのままだったら世に出ないし、多くの人の利便性や快適性に寄与できない。
思いついたからにはシェアするのが世のため人のためになる。
営業職もそうだ。
優秀な営業の人は、本気でその商品を良いと思っている。
だから言葉が相手に届き、心を動かし、契約に至る。
逆に、良いと思っていないのに数字のために売ろうとすると、相手に見透かされ業績は伸びない。
またこの人が勧めているのだから間違いない!!この人が使っているなら!の典型がTVコマーシャルなどのタレントである。
この人が勧めるなら間違いない!
そう思ってもらえるのは、その人自身が魅力的だからこそ。
自分が良いと思うものを人に素直に勧められない人は裏を返せば「自分に自信がない」のかもしれない。
「どうせ聞いてくれない」「おかしいと思われるかも」「受け入れられなかったらどうしよう」
そう思うこと自体がまさにその現実を創り出し、そう思われる自己を形成するのだ。
自己信頼がないと、「自分=所有物(偽我)」という認識から抜け出せず、いつまでも殻が破れない。
その縛りの中で羽ばたけない不自由さが生まれ、それはオーラの透明度にも表れてくる🌈
なぜなら、この世は相対事象の展開なのだから。


















